愛の労働: 嶋田美子
(How much is your) Labour of Love
愛はお金で買えないけれど、愛の行為はお金で買える
私が去年従軍慰安婦(アジア・太平洋戦争中の日本軍性奴隷)について作品を発表した時、「彼女らは売春婦だったのだから仕方がない」「兵士には性的慰安が必要」「売春は必要悪」という声が聞かれました。その時思った非常に素朴な疑問は「なぜ男ばかり性的慰安が必要なんだ」そして「なぜそれを女が無償または安く(それもさげすまれながら)提供しなくていけないんだ」ということでした。
それは沖縄のレイプ事件の報道を読んでも思ったことで、基地売春は黙認されていて、フィリピン人の売春婦の傷害事件は記事にもならないのに、日本人少女の強姦は大騒ぎになり、その上司令官は「レンタカーを借りる金で買春すればよかった」とコメントする・・・。基本的には「若い男がいれば性的慰安が必要なのは当然」で単にその「手段」が悪かった、のでしょうか?
男に性的慰安が必要とされているのは、「本能」とか「男女の根本的性欲メカニズムの違い」からなどという人がまだいますが、人間のセックスは動物的本能からすでにはずれてしまっていますし、男女間の性欲の違いは生物学的に立証されているものではありません。これはやはり「男は外で働いているから慰安が必要、女の仕事は男を慰めること」という労働の性別的分業制の意識がいまだに強くあるためではないでしょうか?男は生産労働、女は再生産労働(労働力と生命の再生産)という図式によれば「近代家庭」は生産労働に従事する男の「憩いの場」、明日への活力を養う場として機能してきました。ここにはいわゆる家事と共に、性的慰安としてのセックスも含まれるでしょう。ただそこには売春と違って「愛」という前提があり、それゆえ無償でなされています。しかしその点を除けば、売春と家庭内性的慰安の社会的機能は基本的に同じです。
「セックスの未来形」というと、個人の性的欲望が無限に拡大していくようなファンタジーとして描かれることが多いですが、基本的にはセックスは二人の人間間の関係で、人間は社会的動物ですからその関係は純粋にセクシャルなものではあり得ません。「セックスの未来形」は今隣に寝ている人と明日どんな関係を持つか、持ちたいか、ということだと思います。
嶋田美子