唐狄鑫(Tang Dixin)の最新作は、縦長の 2.4 × 1.2 メートルの絵画群で構成されている。こうした構図は唐の初期作品ではあまり見られなかったため、今回はとりわけ縦に細長い画面でイメージを構築することが求められている。その結果、初期作品に見られた絡み合う身体に加え、積み重なる身体、積み重なり絡み合ったのちに崩れ、流れ出す身体が登場する。行為の主体であった身体は、ここでは重力に従属する存在となっている。
近年、唐の絵画における人体は、パフォーマンスの身体から表現の身体へと徐々に変化してきた。私の見るところでは、唐の最近の絵画に描かれる四肢は、まるで固まった炎の花弁のようであり、編み込まれて燃え上がるときに圧力を放ち、あるいは目に見えぬ膨張するエネルギーを発し、燃焼のサイクルの終焉に入りながら、ゆっくりと凝縮された残滓を形づくっているように見える。
もし(ある人々にとって)絵画に「内容」が不可欠であるとするなら、唐狄鑫が描いているものを注意深く見てみよう。
果てしなく続くもがき合い、抱擁し合う身体、その飢えと渇きは咆哮しているのだろうか――「身体は炎のように、欲望から生まれる」①。肉から石へ、石から山や谷へと凝固した身体の数々、それらの間には境界も区別もない――「すべては冷たく、すべては蒼白である」②。しなやかで柔らかい身体は、流れ折り重なり波となる。うなだれた首や、反り返った頭、見開かれた目や口、あるいは固く閉ざされた表情は、猛火から立ち上る炎の筋や、焚き火の丸太から不意に弾ける火花を思わせる。そしてまた、互いに支え合う身体もある。よろめきながらも、ある種の均衡を見出しているようだが、軋む腰や膝、足首の関節には、今にもひび割れて崩壊しそうな亀裂が走っている。
私は唐の最新作を「身体化された絵画(embodied painting)」と呼びたい。現象学の伝統において、身体化は「世界における存在」の基盤であり、知覚・認識・意志・身体的運動知能の基盤であり、他の生命を理解し、人類と世界のあらゆる存在が共に生きるための基盤でもある。唐の二つの主要な実践――初期の身体パフォーマンスと、現在の絵画制作――においても、この「身体化」は連続的かつ中核を成す糸のように貫かれている。
唐狄鑫の絵画において、身体化はまずカンヴァス上に提示される内容に現れている。身体や四肢を建材とし、自発性や虚構性を通じて、世界に埋め込まれた人間存在を象徴的なヴィジュアルイメージへと変換しているのである。
同時に身体化は、作家がこれらの内容を生み出すプロセスにも表れる。各絵画において、白紙から筆を入れる最初の瞬間はカンヴァス上に「世界」を創り出すことに等しい。その後、混沌からの旅路が始まり、待機のあいだに浮かび上がる表情を掴み取り、絵画的言語を介してイメージへと形づけていく。その過程は不確かさに満ちており、歴史のマクロ的・ミクロ的瞬間にも似ている。時に停滞や逡巡、自己否定が訪れ、またある時は熱を帯び、軽やかに、素早く果断に進む。しばしば楽観と悲観が交錯し、そうした繰り返しの末に絵画は完成へと至る。
こうした作品を前にして、私は「身体化された鑑賞」を提案したい。線や色や形、リズムや構造だけを眺めるのではなく、作品の生命に身を委ね、開かれた身体で「闘争、和解、そして覚知」の交錯を"見る"試みをしてみてはどうだろう。目で見ると同時に、身体で想像する。イメージが支配するこの時代において、このような絵画こそが、平面的な像を超越する独自の創造と視点を私たちに与えてくれるのだ。
① 『維摩経』
② 魯迅「死火」(1925年)