• 1版1色1刷 ─ 草間彌生のエッチング

  • 草間彌生の版画と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、かぼちゃや花のモチーフ、そして鮮やかな色彩かもしれません。本オンライン・ビューイング・ルーム「111刷」では、そうしたよく知られたイメージから少し距離を置き、ミニマルで抽象性の高いモノクロームのエッチング作品を紹介します。

     

    細かな線の集積、張りつめた余白、反復によって生まれる静かなリズム。色彩を抑えたエッチングでは、線の密度や構図、銅版の腐食によって生まれる繊細な質感が、いっそう際立ちます。そこには、草間が長年にわたり探究してきた「無限」や増殖のイメージが、凝縮されたかたちで現れています。

     

    本展で紹介するのは、1版・1色・1刷によって制作された作品を中心とする一群です。限られた工程のなかで、草間は線の重なりや余白、版の表面に残る痕跡を巧みに用い、緊張感のある画面をつくり出しました。色数の少なさは表現を限定するものではなく、むしろ線と空間の関係を研ぎ澄ます契機となっています。

  • 『当時のリトグラフと銅板は、病院の廊下で制作された。この廊下には「暖房設備がなかったために、銅版制作は手先が凍えるほど冷たかった」と後に草間から聞いた。(中略)制作の過程で銅版の画面内に、腐食中にグランドの皮膜が剥がれて、随所に描画以外の傷が残ってしまったことがある。草間彌生はかえって絵を膨らませる役割を担うプラス面もあると理解し、「自然にできた傷は、作品を生かすために大切な部分である」と言った。』
     
    木村希八*

     

    草間のエッチングの多くは、198485年および199495年に、刷師・木村希八(きはち)との協働によって制作されました。木村は後年、草間が暖房のない病院の廊下で銅版制作を続けていたことを記録しています。

    エッチングは、銅版の表面を防蝕剤で覆い、ニードルで線を描いたのち、腐食液によってその線を刻み込む技法です。溝にインクを詰め、余分なインクを拭き取り、紙とともにプレス機に通すことで像が現れます。その工程では、腐食中に防蝕剤の被膜が剥がれ、意図しない傷や変化が生じることもあります。

     

    草間は、こうした偶発的な痕跡を単なる失敗として取り除くのではなく、画面を生かす要素として受け入れました。計画された線と、制作の過程で生じた傷や滲み。その両者が同じ画面に共存することは、草間のエッチングに独特の緊張と奥行きを与えています。

     

    複数の刷りを可能にする版画というメディアは、「無限」を生涯にわたり探究してきた草間にとって、とりわけ強く響き合う表現形式でもありました。線や点の反復は画面上のモチーフであるだけでなく、版を介して像を繰り返し立ち上げるという版画の方法そのものにも結びついたのです。主題と技法の関係がこれほど密接に対応する例は、決して多くありません。

  • 草間彌生のエッチングを再考する

    草間彌生のエッチングを再考する

    草間彌生は、絵画、彫刻、インスタレーション、没入型空間など、多様な表現によって国際的に知られています。一方で版画、とりわけエッチングは、その活動において重要な位置を占めながら、絵画やインスタレーションほど広く紹介されてきた領域ではありませんでした。

     

    現在、Fondation BeyelerMuseum LudwigStedelijk Museumを巡回する回顧展では、草間の版画も重要な作品群として取り上げられています。同展は版画を、絵画やインスタレーションの周縁的な存在ではなく、草間の表現を理解するうえで欠かせない領域として位置づけています。アソシエイト・キュレーターの Charlotte Sarrazin も「版画は草間の作品世界において中心的な位置を占める」と展覧会カタログのなかで述べています。また版画を、「尽きることのない創造的発見の源」であると同時に、草間が「儚さ、執着、無限、そして宇宙的な美」といった主題を可視化するための、重要な方法のひとつとして論じています。** 

     

    草間のエッチングは、線を刻み、腐食に委ね、プレスによって像を定着させるという版画固有の時間を内包しています。作家が生涯向き合い続けてきた主題が、反復や繊細な痕跡の集積を通して、きわめて親密で純化されたかたちへと結晶化されます。

  • Yayoi Kusama River at Sunrise, 1995 Etching [1 plate, 1 color, 1 run] 22.3 x 31 cm [Image] / 38...

    Yayoi Kusama

    River at Sunrise, 1995

    Etching [1 plate, 1 color, 1 run]

    22.3 x 31 cm [Image] / 38 x 50.7 cm [Paper]

     

     

    これらの版画作品は、決して副次的なものではありません。むしろ草間の実践が、いまなお新たな解釈や研究の可能性を開き続けていることを示しています。世界的な評価を確立した現在においても、その作品はなお多層的で捉えがたく、時間をかけて見つめることで、思いがけない深みを絶えず見せ続けています。

     

    草間の多様な表現のなかでも、エッチングというメディアは、「制御」と「崩壊」の繊細な均衡を最もよく映し出しているのかもしれません。刻まれた線、腐食、圧力、そして反復によって成り立つこれらの作品には、作家の手の痕跡が、驚くほど親密なかたちで残されています。

     

    没入型インスタレーションにしばしば伴うスペクタクル性から距離を置いたこれらの作品は、より静かで持続的な鑑賞体験へと私たちを導きます。そこでは「無限」は、スケールによってではなく、蓄積、沈黙、そして持続によって立ち現れてくるのです。

     

     

  • Polka Dots, 1994

    Yayoi Kusama

    Polka Dots, 1994

    Etching [1 plate, 1 color, 1 run]

    29.5 x 41.8 cm [Image] / 45.5 x 63 cm [Paper]

    Polka Dots, 1994

     

    《Polka Dots》は、草間彌生を代表する水玉のモチーフを用いた作品です。連なる水玉は、軌道を描く天体のように画面を漂い、細胞やアメーバのような有機的な形も思わせます。色彩を用いないことで、水玉の反復によるリズムと、画面全体に広がる有機的な構成が、より明確に表れています。

  • Infinity Nets (B), 1994

    Yayoi Kusama

    Infinity Nets (B), 1994

    Etching [1 plate, 1 color, 1 run]

    29.5 x 41.8 cm [Image] / 45.5 x 63 cm [Paper]

    Infinity Nets (B), 1994

     

    ゆらぎを帯びた三角形の編み目が画面全体に広がっています。線は均一ではなく、わずかな揺れやずれを含むため、画面に静かな動きが生まれます。見る者を、焦点を一点に定めることのできない、絶えず変化する場へと引き込むかのようです。ミニマルでありながら催眠的でもあり、見る位置や時間によって、異なるリズムや形のつながりが見えてくる作品です。

  • 20267月には、本オンライン・ビューイング・ルームと連動し、東京で開催されるグループ展「白と黒」の一部として実作品も展示予定です。抽象度の高い作品に加え、かぼちゃや花を主題とするものもあわせて紹介し、草間のエッチング制作をより幅広い視点からご覧いただける構成となります。

     

    草間作品に初めて触れる方にとっては、親しみのあるモチーフの背後にある、もうひとつの表現世界への入口となるのではないでしょうか。また、すでにその作品に親しんでいる方にとっては、絵画やインスタレーションとは異なる角度から、草間彌生の制作の核に触れる機会となることでしょう。

     

    * 木村希八『刷師・希八支えた芸術家たち』(木村希八版画工房、2009年)90頁、および渋田見彰による論考を参照。
    ** Charlotte Sarrazin, “Yayoi Kusama,” in Yayoi Kusama, exhibition catalogue, Fondation Beyeler, Riehen; Museum Ludwig, Cologne; Stedelijk Museum Amsterdam; Hatje Cantz, 2025, p. 228.
  • Yayoi Kusama Bud, 1995 Etching [1 plate, 1 color, 1 run] 34.3 x 22 cm [Image] / 53 x 38...

    Yayoi Kusama

    Bud, 1995

    Etching [1 plate, 1 color, 1 run]

    34.3 x 22 cm [Image] / 53 x 38 cm [Paper]

  • Yayoi Kusama River Wave, 1993 Etching [1 plate, 1 color, 1 run] 27.5 x 21.9 cm [Image] / 49 x...
    Yayoi Kusama
    River Wave, 1993
    Etching [1 plate, 1 color, 1 run]
    27.5 x 21.9 cm [Image] / 49 x 38 cm [Paper]
  • Yayoi Kusama City, 1993 Etching [1 plate, 1 color, 1 run] 27.3 x 21.9 cm [Image] / 49 x 39...
    Yayoi Kusama
    City, 1993
    Etching [1 plate, 1 color, 1 run]
    27.3 x 21.9 cm [Image] / 49 x 39 cm [Paper]